いくら勉強しても言葉を紡いでも、人生が好転している気配がない。なにがたりないんだろうか。。。

そもそもなにをもってして人生の好転機とするのか、それすら不明瞭なまま、あたかも霧の中で五寸先も見えないまま手探りでうろつくといったような生き方をこのごろしているような気がする。 そんな状況のなかで求められるのは。霧の中でもその位置を明瞭に現す、強力な光源をもった灯台のような目標であったりあこがれであったりするのだけれども、そういったものは結局、いま自分のいる位置を照らし出すことで明瞭化し、とりあえずは進むべき道を探り出すのに役立ちはするのだけれども、道を進んでいくにつれて光源は遠くなり、また新たな灯台を必要とせざるを得なくなる。つまりはどんなに強烈なイデオロギーや目標意識なんかも、けっきょくは絶対的なものではあり得なくて、だからただの通過点にしかすぎない、道を照らし出すための相対的な印でしかない目標を絶対化しそれにしがみつくと、たいていの場合おかしくなる。

たとえば俺の場合、医学部の合格というのが当面の目標なのだが、それはくまで通過点にしかすぎず、相対的なものでしかないというのは、さすがに成人した人ならわかるはずだが、それなりの学力と分別をもつ人間が多いはずの浪人界隈でも医学部合格というマイルストーンを神聖化し、フェティシズムに陥る人間というのは珍しくない存在だ。 強烈な光源に身を任せ、コンビニの電灯にあつまる夜の虫よろしくそれに特攻するのは、光源が誘発する衝動の大きさを考えるとそれに身をまかせるのはモチベーションの維持とそのコストを考えるとわりかし理にかなっている気もするけど、理性を失った猛進というのはその犠牲も考えるとあまり賢いものではない。 目標を達成しなくても良いと言っているわけではない。

いや、むしろ目標を達成するために、冷静である必要があると言っているのだ。

揺るぎようのないようにみえる教条を与えられた人は、ときに物凄いエネルギーを発する。だがその偏狭な精神が産み出すエネルギーはひとたび教条の絶対性が失われるとたちまち効力を失ってしまう。

考えることをめんどくさがる、あるいはどう考えていいのかわからない人たちは、世界を単純化して捉える教条の罠に陥りやすい。不幸にも物事を批判して考える術を持たない人間は、絶対的な教条やわかりやすい図式を欲しがる。不安だからだ。 かくいう自分も、どちらかというとそういう人間に近い。ただたまたま、幸か不幸か中途半端に働く頭をもって産まれてしまっただけだ。物事を批判して考えるための材料は少ししじゃ持ち合わせていない。だから俺は、本質的には新興宗教的なわかりやすい世界観を必要とせざるを得ない人物だ。だからより一層そういったものを嫌う。軽蔑する。そうしないとあっというまにそれらに取り込まれてしまうからだ。

物事を批判して考えるための道具に乏しい。ひいては、頭が悪い。だから頭の良い人に憧れる。そういったひとに少しでも近づけたらと思う。ここでいう頭の良さとは学歴の良し悪しとは必ずしも合致しない。もっと日常的な物事を遂行する上での、頭のキレのようなものだ。

福沢諭吉のいう実学とは、こういったもののことを言うのだろうと思う。反証可能な思考プロセス。教義ではない駆動理念。

「もっといい方法があるなら教えてくれ。そういう批判なら喜んで受け入れるだろう。」という姿勢こそが、机上の空論ではない、世界を現実に動かす思考へとつながるのだと思う。