なんか今日は頭の回転が遅いな、鈍ってるなと思ったら、土曜で朝テストがないので、一日中人と話さないどころか人の気配にも触れていないことに気がついた。 もう夜だけど頭廻すがてらなんか書く。

今日の英文。シェイクスピアに関してとんでもねぇ記述を見つけた。 Most of us use about five thousand words in our normal employment of English;Shakespeare in his works used about twnty-five thousand! 我々の大部分は、ふつう英語を用いるのに約5000語を使用するが、シェイクスピアについては彼の作品においてなんと25000もの語が使用されているのだ! ぱねぇ。読んだことないけど。

どうも俺は他人と比して白昼夢に浸る割合が多いっぽいんですが、気を抜くとすぐに時間が経っちまう。今日が何日かわからないとかザラ。 別に浪人中に限った話じゃなくて、どうも小学校あたりからそうっぽいんですな。

環境さえ許せばいつまでもベッドで寝てるような人間で、昨日のように急にスイッチが入ることもあれば、今日みたく思考が糸の切れた凧みたくどっかフラフラしっぱなしの時もある。

言葉で物を語るってことは全体性を失うってことだと思うんですよ。人間は場に思考を支配される生き物なので、意識的に脳内に複数の場を用意したほうがいい。人は出自を裏切ることはできないので、慣習を変えたければまず一旦は言語化するなり随時自分の行動を記録するなりで意識化して、そっから変えていかなきゃいけない。間違っても力づくで無理やり変えるなんて試みを持っちゃいけない。さもなくば神経症になってしまう。ひとは意識していることなんかよりも無意識に動かされていることのほうが莫大に大きいので、痩せ細った理屈なんかで無理やり駆動しようとすると、精神がおかしくなる。馬鹿になる。 で、そういう無意識をもっと洗練させていこうってのが、コスモロジーを豊かにすることで。その手段のひとつが文章であったり、修行であったりするわけです。慣習を身に染み込ませる。 ひとは普段いろんなことを強いられるわけでもなく考えるものですが、放っておくと考えた内容なんてすぐに忘れてしまうし、堂々巡りなんてしょっちゅうで、だから考えたことを時系列で記録しなければいけない。 人文を身につけるには反芻しなきゃいけない。本が手元にない状態でも内容が”イメージ”できるようにしなくちゃいけない。(丸暗記とは違う)

集中切れた。

今日も今日とて高校でたばっかの子らと肩並べて勉強ですが、今日気付いた、俺もう22なのにほっとんど精神年齢かわんねぇ。 まー人間の精神年齢なんて環境に左右されまくりますから高校出てからこのかた成仏せずに浪人界をぐるぐる転生してりゃあそりゃあ停滞するだろうけどもちょいなんとかならんかったんかなと。ひとえにパーソナリティの問題だ。

百姓マレイって本読みました〜。青空文庫で。ドフトエフスキーの短編ですな。すぐ読めます。 で、内容なんですが、牢屋に閉じ込められた29の青年が幼い頃(9歳)のなにげない記憶をふとした拍子に思い出すって話です。

”というのは、わたしは自分の仕事に夢中になっていましたから。つまりわたしは、かえるを打つのに使うくるみの枝をおろうと一生懸命でした。くるみの枝でつくったむちときたら、きれいで、よくたわんで、とても白樺の枝なんか比べ物にならないのです。”

主人公は幼い頃過ごした森のことを思い出します。ほんで、そこでムチの話が出てくるんですが、これはもちろん市販のやつじゃなくて自分で木の枝をとってきて加工したやつですよね。それも木の枝ならなんでもいいってわけじゃない。白樺とくるみの枝は無関心なひとには大した違いなんてないように見えますが、森あそびに精通した幼い頃の主人公にはまったくちがう、ムチに加工するためには無視することのできない質感の違いがあって、主人公にはそれが大事なことなんですね。枝の質感の違いが意味を伴って主人公の前に発生してきているといってもいい。

”わたしは一生のうちで、あの森くらい好きだった場所はありません。きのこがある、いちごがる、かぶと虫もいれば、小鳥もいる。ハリネズミ、りす、それからわたしの好きで好きでたまらなかったあのしめっぽい落ち葉の匂い。。。わたしは今これを書きながら、白樺の林のにおいをしみじみかぐような気持ちがします。そういう感じは、一生のあいだ、いつまでも消えずに残っているものです。”

俺らはふつう、自分単体では生きていけません。周りを取り囲む環境に働きかけ、レスポンスをもらい、そうしないと環境的空間失調というか、そういうものに陥るんですな。ほんで、俺は去年半年間引き篭もりだったわけですが、あれはたぶんそういう空間失調に陥ろうとしたために緊急避難的にあぁいう状態になったんじゃないかなーと思う。受験するいみがわからない、このままうかってもその先どうなるのか、どうしたいのかがわからない。それでも時間は進む。周りの大人は意味のわからないことを言う。すべてが実感を伴わなくなる。

重要なのは、「働きかけて、レスポンスをもらい、自分の行動にフィードバックをする」ことで、幼いころの主人公は森での遊びを通してそういう、世界との関わりを学んでいった。そこには意味があった。白樺やくるみの木はたんなる木ではなかった。そこには違いがあり、ひっかかりがあり、自分の行動に影響するものがあった。 ぼけーっと日がな一日テレビをみて、タイムラインをながめて、それで1日が終わって、死にたくなるのは、たぶん働きかける動作がないからだ。世界が意味を失っているからだ。そういうとき、世界と自分には薄い透明な膜で隔たれているような感覚がある。スナック菓子とバラエティで飼い殺されるのを憎悪するのはそれが緩やかな自殺のように思えるからだ。そして人は意識しない限りたいていはそういう境遇に収まっていく。

なんかファスト風土ってそういうことかなーって思った。あんまうまく書けてないけど。

で、主人公は今や粗暴な囚人で埋め尽くされる牢屋に閉じ込められているわけです。そこには世界との働きかけ、働きかけられる交流はない。 そこで思い出すのが、今の今まですっかり忘れていた、貧乏な百姓マレイとの会話でした ”あの貧乏な百姓の、やさしい、まるで母親のような微笑みだの、お祈りの十字の印や、あの首を横にふりながら「ほんに、さぞたまげたこったろうになぁ、やれやれ」と言ってくれた声などが、わたしの頭に浮かんだのです。 とりわけはっきりおもいだすのは、わたしのひくひくひっつれるくちびるに、おずおずと、やさしさをこめてそっと触った、あの土だらけの太い指なのです”

たぶんいくら頭で世界のことをかんがえても、それで世界に働きかけて世界が少しでも変化し、フィードバックを得られない思考ならいくら積み上げても無駄だ。くちにふれた土だらけの指にはかなわない。 いくら本をよんでも読前と読後で自分が変化していなければそれは読まなくてもよかった本だし、いくら文章を綴ってもその前と後とで自分が変化していなければ、文章を綴ることで自分の考えを再考する契機になっていなければ、それはただの自分だけに閉じられた白昼夢を綴ったものでしかない。と思う。

いくら勉強しても言葉を紡いでも、人生が好転している気配がない。なにがたりないんだろうか。。。

そもそもなにをもってして人生の好転機とするのか、それすら不明瞭なまま、あたかも霧の中で五寸先も見えないまま手探りでうろつくといったような生き方をこのごろしているような気がする。 そんな状況のなかで求められるのは。霧の中でもその位置を明瞭に現す、強力な光源をもった灯台のような目標であったりあこがれであったりするのだけれども、そういったものは結局、いま自分のいる位置を照らし出すことで明瞭化し、とりあえずは進むべき道を探り出すのに役立ちはするのだけれども、道を進んでいくにつれて光源は遠くなり、また新たな灯台を必要とせざるを得なくなる。つまりはどんなに強烈なイデオロギーや目標意識なんかも、けっきょくは絶対的なものではあり得なくて、だからただの通過点にしかすぎない、道を照らし出すための相対的な印でしかない目標を絶対化しそれにしがみつくと、たいていの場合おかしくなる。

たとえば俺の場合、医学部の合格というのが当面の目標なのだが、それはくまで通過点にしかすぎず、相対的なものでしかないというのは、さすがに成人した人ならわかるはずだが、それなりの学力と分別をもつ人間が多いはずの浪人界隈でも医学部合格というマイルストーンを神聖化し、フェティシズムに陥る人間というのは珍しくない存在だ。 強烈な光源に身を任せ、コンビニの電灯にあつまる夜の虫よろしくそれに特攻するのは、光源が誘発する衝動の大きさを考えるとそれに身をまかせるのはモチベーションの維持とそのコストを考えるとわりかし理にかなっている気もするけど、理性を失った猛進というのはその犠牲も考えるとあまり賢いものではない。 目標を達成しなくても良いと言っているわけではない。

いや、むしろ目標を達成するために、冷静である必要があると言っているのだ。

揺るぎようのないようにみえる教条を与えられた人は、ときに物凄いエネルギーを発する。だがその偏狭な精神が産み出すエネルギーはひとたび教条の絶対性が失われるとたちまち効力を失ってしまう。

考えることをめんどくさがる、あるいはどう考えていいのかわからない人たちは、世界を単純化して捉える教条の罠に陥りやすい。不幸にも物事を批判して考える術を持たない人間は、絶対的な教条やわかりやすい図式を欲しがる。不安だからだ。 かくいう自分も、どちらかというとそういう人間に近い。ただたまたま、幸か不幸か中途半端に働く頭をもって産まれてしまっただけだ。物事を批判して考えるための材料は少ししじゃ持ち合わせていない。だから俺は、本質的には新興宗教的なわかりやすい世界観を必要とせざるを得ない人物だ。だからより一層そういったものを嫌う。軽蔑する。そうしないとあっというまにそれらに取り込まれてしまうからだ。

物事を批判して考えるための道具に乏しい。ひいては、頭が悪い。だから頭の良い人に憧れる。そういったひとに少しでも近づけたらと思う。ここでいう頭の良さとは学歴の良し悪しとは必ずしも合致しない。もっと日常的な物事を遂行する上での、頭のキレのようなものだ。

福沢諭吉のいう実学とは、こういったもののことを言うのだろうと思う。反証可能な思考プロセス。教義ではない駆動理念。

「もっといい方法があるなら教えてくれ。そういう批判なら喜んで受け入れるだろう。」という姿勢こそが、机上の空論ではない、世界を現実に動かす思考へとつながるのだと思う。

自分が感じたことを人にもわかるように伝えるのはひどく骨の折れる作業だ。余すことなく伝えようとすrば逃げ水を追うような話になってしまい、端的に伝えようとすると紋切り型の決まり口上になってしまう。「それだけじないんだけどね。。。」

そのときはうまく言葉にできなかったものを表現できる言葉に出会ったときは、いつだってたいてい時間が経ちすぎていて、そのことを話しても「そういうこともあったね」で終わってしまう。今だってきっとそうだ。

頭のなかではぼんやりとしたイメージがあるのに、それを言葉にしようとするとたちまち雨散霧消してしまう。あるいは身体がついていけない。

いつ頃からだったか。いつだってずっと自分が何か致命的な欠落があるような気がしてきたし、いつでも何をしていても、「これでいいのか。」と常に心のどこかで自問せざるを得ない座りの悪さと焦燥感とに苛まれてきた。

いま、ここではないどこかで、あり得たかもしれないじぶん

そういうのを自覚し始めたのは、折り悪く思春期と寮での不適応が重なって、じぶんというものに猜疑心をかけざるを得なくなってしまった頃に起因するのかもしれない。成績は良くても虐められる。何も悪いことをした覚えはないのに気持ち悪いと言われる、疎まれる。軽んじられるのは今だって変わらないけど、勉強の成績だけが依り代のようだった当時の自分は今以上に偏屈なプライドが高くて、いまなら「そうなんすよwwwおれダメ人間なんすよwwwたははww」と笑い飛ばせるようなことも(これはこれで問題あると思うが)、必要以上に真に受けて、そして自滅していった。

「勉強にばかりかまけているから虐められるのだ」 まだ中3だった自分は親が一時的な避難場所として用意してくれたアパートで一人暮らしをしながら、漠然とそういうことを考えていた。 おれはいつだって極端に走り過ぎる。 勝手に勉学に絶望した自分は一切ペンを握らなくなってしまった。 で、代わりに精を出したのが身体面と外見の向上である。肥満児だった自分はとにかく痩せれば、見た目さえ良くなればこの自己嫌悪の蟻地獄から逃れられるのだと思って、87kgあった体重を約1年で60切るまで落とした。「脱オタ」なんて言葉をガラケーのちっちゃい画面を駆使して調べあげたのもこの時期だ。たしかこの頃にはシロクマ先生のブログに辿り着いていたと思う。

まぁそんなこんなあって見た目はマシになった。周囲からの扱いも以前よりかはマシになっていた気がする。そもそもただの自意識過剰だった説のほうが可能性高いんだけど。

高校の3年間は、なにをしていたのか思い出せない。思い出せるのは、寮のベッドのうえで、放課後下校したあと寝るまでひたすらやった、モバゲーの釣りゲームと、その時聴いていたチャットモンチーぐらいだ。思い起こせば楽しい思い出はそれなりにあったかもしれないけど、常に流れていた通奏低音はそういう、無為で、だけど常にしんどくて、自分を否定しなければいけないという使命感だけが常に自分を突き動かしていて、そういう、衝動を持て余しているような、そんな日々だった。

そんな感じで高校生活を過ごしていたのだけれども、二学年が終わり、3学年が始まろうというのにまだ自分のメンタリティは自己否定モードのまんまで、2月の肌寒い空気の中、日課のジョギングをしながら

「おれはじぶんをかえなければならない。おれはコミュ障で上下関係にも疎いからそこらへんをかえなければいけない。よっておれは自衛隊にはいる」

とか考えてて今思い返すとただのキチガイだと思う。

けっきょくいくら頑張ってもせいぜいフルメタルジャケットの微笑みデブみたく集団生活不適応のすえボコられて逆ギレして終わりってのが薄々気づいたのでその道はやめたのだけれども、じゃあ何すんの?

え?

じゃあ何すんのって

う〜ん、、、とりあえず勉強頑張って、、、、

なに

医者、、、?とか、、、、

じゃあ何するの?医者でしょ!!

みたいな。そういう、進路決定だった。

我ながら糞だと思う。

それで、だ、その末路がこの有様である。

高校ろくに勉強していないのだから、現役で受からないのはまだしも、4浪だぞ、4浪。

おまえは一体なにをしてきたのだ。

場違いで不慣れなところに行くときはいつだって緊張する。とくに一方的に視線の注がれることの多い場所ではなおさらだ。

母の日に買ったトルコギキョウが素敵で、それがきっかけで自室にも花を飾ろうと思い立ち、近所のリサイクルショップで花瓶を買った。夏のラムネ瓶みたいな青色で、安物の割には気に入っている。 が、花瓶を買ったのはもう何ヶ月も前の話で(5月に買った)、花を買おう、買って飾ろうと思っているうちにいつの間にか夏も過ぎ、秋も過ぎて、寒さが目立ち始めた11月になってしまった。