ひとの勤勉/怠惰を決めるのはなんだろうと漠然と考える。 たぶんそれは「意味」であって、本人の資質にまったく依らないとは言わないけど、やることに意味を見出せなければそれに没頭することは難しい。

ブログでは長い間内省的な、自分以外には「お、おぅ。。。」で終わってしまうようなことを書き過ぎてしまったなと思う。ここでも、というかブログ以上にここでは、内省的になりすぎるが故に意識が外界と上滑りするようなことを書き過ぎてしまったなと思う。そういうのがステージアップのため、カゴのなかから脱出するために必要なプロセスではあったけど。

だいたい「ブロガーのひみつきち」と銘打たれたところでこのように好き勝手振る舞うことに違和感と罪悪感を朧げながら感じていたわけだけれども、それはじぶんがブロガーであるというアイデンティティの意識を持たないできたことに由来する。自分はブロガーではない。少なくとも、いまのところは。ただの自分語り屋だ。 ブログを開設したのは自分語りのためで、世界と自分とを結びつけるために、自分と世界とを隔てている薄く透明な膜を破るために開設し、エントリを積み上げてきたのだから、それで構わないのだけれど。 まぁもう少しして気が向いたら、気が熟せばもうちょい外界にベクトルを向けたブログ人格にシフトしていってもいい、いっても良いというか自然にそうなるのだと思う。そしてそうなる時はすなわちリアル人格の社会性、外向性がそれなりの形を伴ってきたときになるんだろうなと思う。相変わらず自分語りしかできることがないのだけれども、なるべく早くそういう体制にギアチェンジしていこうと思う。

その一方で、内面をえぐるような観察眼と描写技術をもつ人の書く文に憧れてもいて、稚拙な文章力と幼稚な精神しかいまだ持ち合わせない自分がこんなこと言うのは恥ずかしいんだけど、そういう文章をいつかは書くという野心のようなものを持っている。

人間が惰性を振り切り、ステージアップしようと考えるのは、慣習といずれはなる己の行動に意味を十分に見出せた時だ。莫大な時間と労力を、わざわざ安寧を振り切ってまで投資し、卑近で安易な欲求充足を先延ばしにし、節制禁欲を可能にするのは、進まんとする道とその先にあるものに、それだけの意義と価値があることを己の行動を通して確信できた時だけだ。

悩みに悩み、のたうちまわってきた自分をすこし名誉にも感じていて、

ブログを開設したのは自分語りのためで、世界に自分を繋ぎとめ、自分と世界を隔ててる薄い透明な膜を破って前に進むために言葉を紡いできたので、書くことほとんどが内向的なのは当然なのだけれども、いざ久しぶりに何かを書こうとすると書きたいことのほとんどが自分語りに終始してしまうものだと流石に閉口してしまう。

一旦家に帰って一人で飯食いながらキーボード打ってる。 ニコニコ動画なんてめったに開くことないしニコニコ文化にはからっきし疎いのだけれど、だいぶ昔、まだ那覇レオパレスで一人暮らししながら浪人してる時になにかの拍子で知った「パンツマン」をなぜかおととい急に思い出して、iPhoneニコニコ動画アプリでパンツマンがきったねぇキッチンで、独身の一人暮らしがきたねぇキッチンで作るわりには手の込んだ、ピラフだのの料理を作るのを観ながら昼飯を食った。

秋めいてきて南国である俺の居住地にも、ふだんは冷凍物しかない秋刀魚がその日は内地から直送された、ギラギラ光って獲れたてのものがスーパーの生食品コーナーに入ってきていたので(冷凍モノはたいていこのギラギラが落ち込んでいて、氷水に無造作に突っ込まれたものがだらしなく浮かんでいることが多いので食欲をそそらない。)それを買ってグリルで炙ったものをメインに、久しぶりに味噌汁を作って、煮干しで出汁をとって白味噌、ネギ、豆腐で仕上げたものを添える。

店長ことmk2さんのテキストサイト時代のログを漁ってちょっと思ったことなどを

リビドーに任せて何かしらに没入することが無くなってしまった、と思った。なくなってしまったということは、以前はあったということだ。俺は覚えている。中学生の頃の、英文を親指のつけ根が痛くなるほど何度も何度も写経して頭に叩き込んで、頭が飽和した時に勉強机からみえた夜景を眺めているときの、あの感覚を。鼻炎がちの鼻からとめどなく溢れてくる鼻水を制服の袖で抑えながら必死になって写経暗記した数学のテキストと冷房が効き過ぎた塾の自習室で、親元を離れ、友人もそんなにいない中で不安になりながら勉強した時の、必死さと哀愁の入り混じった心境を。

いまはどうか。だいぶたるんで荒んでしまったなと思う。

パソコン詳しいひと多いと思うんで聞きたいんですけど、プログラミング技術を、なんか最近"教養として"身につけておくべきみたいな話をちょくちょく耳にしますけど、これってどういうことなんですかね。周りにそういうの強い人いないんでよくわからないです。

いやもちろん今は受験勉強を最優先させますけど。

受験勉強にしたって、詰め込んで受かってはい終わりー全部忘れたー飲み会サークルうぇーいってなるのが普通だと思うんすけど、それめっちゃ嫌なんすよね。積分が役に立つ場面があるはずだ。有機化学の知識が役にたつ場面があるはずだ。工業化学の知識がのちのち役にたつ場面が実際にあるはずだ。 1984の読書会したときに印象に残ったもののひとつに、主人公が労働者階級の集まるBARであまり頭の良くない老人にビール奢って昔の話を聴きだそうとしたけど結局”つまらない”話しか聞き出せなかったって落胆してる場面に、レモンさんが、「断片的な情報から意味を汲み取ってつなぎ合わせるのがお前の仕事であって、老人の話がつまらないのはお前の力が足りないせいだ」っていってたのがあって、それじゃないですけど、たぶん与えられたフィールドで与えられたことを黙々とやっても、自分の身に引きつけて自分で考える脚力みたいなのがなかったら、単なる暗記マシーンで終わってしまうとおもうんですよね。暗記マシーンの優劣を比べる競争でしかなくなってしまう。

たぶん浪人初期からぼんやりと感じていた違和感を敢えていま一側面から捉えて言語化するとしたら、こういう「勉強してなんになるの」ってことだと思うんすよね。で、それの答えは「お前が考えろ」なんだと思うんですけど。 ブルデュー文化資本じゃないですけど、そういうのって周りの人間に左右される。そういう点ではネットある時代に産まれてよかったなと思いますけど、それだけじゃもちろん足りないわけで、自分からキャッチしていかないといけない。

そんなことを考えながら勉強してきた結果がいまの惨状なんですけど、じゃあなんも考えずにとにかく与えられたものをこなして受かってそのあとどうなってたんだろうってことを考えると。。。。。。たぶん遅かれ早かれつまずいていたんだろうなと思う。どのみちこの数年の逡巡は必要だったんじゃないかと。

それにしたって遠回りをしすぎではあって、いまの惨状はもうちょっとはマシにはできたのは確かなんだけど。

なんか今日は頭の回転が遅いな、鈍ってるなと思ったら、土曜で朝テストがないので、一日中人と話さないどころか人の気配にも触れていないことに気がついた。 もう夜だけど頭廻すがてらなんか書く。

今日の英文。シェイクスピアに関してとんでもねぇ記述を見つけた。 Most of us use about five thousand words in our normal employment of English;Shakespeare in his works used about twnty-five thousand! 我々の大部分は、ふつう英語を用いるのに約5000語を使用するが、シェイクスピアについては彼の作品においてなんと25000もの語が使用されているのだ! ぱねぇ。読んだことないけど。

どうも俺は他人と比して白昼夢に浸る割合が多いっぽいんですが、気を抜くとすぐに時間が経っちまう。今日が何日かわからないとかザラ。 別に浪人中に限った話じゃなくて、どうも小学校あたりからそうっぽいんですな。

環境さえ許せばいつまでもベッドで寝てるような人間で、昨日のように急にスイッチが入ることもあれば、今日みたく思考が糸の切れた凧みたくどっかフラフラしっぱなしの時もある。

言葉で物を語るってことは全体性を失うってことだと思うんですよ。人間は場に思考を支配される生き物なので、意識的に脳内に複数の場を用意したほうがいい。人は出自を裏切ることはできないので、慣習を変えたければまず一旦は言語化するなり随時自分の行動を記録するなりで意識化して、そっから変えていかなきゃいけない。間違っても力づくで無理やり変えるなんて試みを持っちゃいけない。さもなくば神経症になってしまう。ひとは意識していることなんかよりも無意識に動かされていることのほうが莫大に大きいので、痩せ細った理屈なんかで無理やり駆動しようとすると、精神がおかしくなる。馬鹿になる。 で、そういう無意識をもっと洗練させていこうってのが、コスモロジーを豊かにすることで。その手段のひとつが文章であったり、修行であったりするわけです。慣習を身に染み込ませる。 ひとは普段いろんなことを強いられるわけでもなく考えるものですが、放っておくと考えた内容なんてすぐに忘れてしまうし、堂々巡りなんてしょっちゅうで、だから考えたことを時系列で記録しなければいけない。 人文を身につけるには反芻しなきゃいけない。本が手元にない状態でも内容が”イメージ”できるようにしなくちゃいけない。(丸暗記とは違う)