姉の結婚式のため、陰鬱な離島から抜け出して、久しぶりに那覇に出向く。初日はジュンク堂だけで時間が潰れた。本の品揃えがコーヒーの搾りカスみたいで、床にゴミが落ちて塵が舞う(本当に)、荒み切った島の心象風景を反映したような書店しかない離島とは違い、那覇には人文書がそこそこ充実したジュンク堂があるから最高だ。 そこの東京の人、笑わない。

今日は二泊三日旅の最終日。高校時代、自習をしにしばしば通ったカフェに行く。そこに置いてあった「仕事は楽しいかね」を今読み終える。

昨日の姉の結婚式の二次会、新郎側の親戚とも交流すればいいのに、会場は新郎側新婦側がそれぞれ別で、集まったのは盆に集まるのと変わらない顔ぶれ。

さっさと帰りたいねと弟と顔を見合わせ、ジュンク堂で買った論語の本をテーブルの下に隠して読む。弟はスマホをいじる。テーブルを挟んで向こう側に腰を下ろしてあぐらをかいている親戚のオヤジのひとりが「疲れているのか」と話しかけてくる。テーブル下の本を読んでいるのを疲れて俯いていると勘違いしたらしい。はは、まぁとはぐらかして本をテーブル下の座敷の上に伏せて隠す。しばらくおじさま達の演説を聞くともなしに耳を傾ける。飽きる。本を読み出す。さっきのオヤジがあからさまに怪訝な顔をする。自分の世界に浸るんじゃない、と明らかにさっきよりイライラを募らせてきているのでこれはマズイとあたふたしていると、隣にゆうちょの保険営業マンの叔父が腰を下ろした。手元に隠してあった本にチラリと視線をやると、「俺も若いころ、プータローしてたころはよく本を読んだけどなあ」と切り出す

人間の寿命が80歳くらいだとして、健康に生きられるのが、男だとせいぜい70くらい。いま22のお前に残されたのはあと50年くらいだ。お前はいま色々と迷ってこういう本に手を出したりしてるのかもしれんが、迷っているうちにあっというまに時間は過ぎる。短い人生でできることはたかが知れていて、まだ若いなどとタカをくくっていたらすぐに時間は過ぎる。 お前はこうやって本を読んで何かを積み上げでいくことでいつかどこかに辿り着くと思っているのかもしれんが、現実に必要なのは決断だ。決断ってことはほかの可能性を捨てることだ。 仕事ではまず始めに目標を設定して、そこからやるべきことを逆算してそれに基づいて行動することが求められるが、人生に求められるのもそういうことではないのか。お前にいま1番必要なのは、そういうことではないのか。

そういう趣旨のことを話した。

姉の結婚式はチャペルで、うちはクリスチャンではないから誓いの言葉なんかは形式だけのことなんだけれども、それでも祈りを捧げるっていう行為はそれ自体で一種の神聖さをまとっている。 不確定な未来に己の願いを投射して一心に祈る、祈りっていう行為は非合理的なものなんだけども、迷いがない。迷いがないという一点をもってして、あーだこーだと屁理屈をこねて石橋を叩き割るような生き方を超越する。 生涯の伴侶をきめることは、薄氷の上をダッシュで駆け抜けるようなもんだ。不確定要素が多すぎて、それでも決意するしか道はなくて、だからそういう決断をした姉を尊敬していて、人生のどこかで折り合いをつけて"祈る"ことを決意した人間に対しては誰であれ敬意を抱くが、最終的には俺だって決断をしなければならないんだけど、なんとなく叔父の言い方にはもやっとしたもんが残った。言ってることは間違ってないと思うけど。

店の前でタクシーを待ちながら 決断…決断、ね…、とつぶやくと、「そうだよ!!」と叔父は怒ったように言った。「お前が決断しないで誰が決めるんだ」

叔父は、かんぽの宿に泊まるとのことだった。郵便局員は一泊500円で済むらしい。

郵便局員は薄給だけどなぁ」 目が座っている。ふだんゴールデンレトリバーみたいな叔父が、タチのわるい絡み酒をするオヤジみたいな喋り方をした。押し固められた鬱憤が酒で溶け出してきていた。 「福利厚生は充実してるんだよぉ」 愚痴とも自慢とも、諦念ともとれる調子で言った。

結婚式の余興、本番前、兄がやたらとはりきっている。こんなもの、適当にすませばいいのに。

東京の法科大学院を中退後、弁護士になる目標をとっとと放棄して地元に帰ってきた兄は、めきめきと太り襟の伸びきったシャツとパンツ姿で家のなかを徘徊するようになった。くたびれたシャツにくっきりと浮かび上がるぱんぱんに膨らんだ腹と、動作のひとつひとつの合間に溜息ともあえぎともつかない声を挟む、まだ28なのにくたびれきった老人みたいな動作にはイライラさせられたが、なにより嫌だったのは地元に帰ってきてからやたらと家族に気を使うようになったことだ。

家族の誕生日には必ずプレゼントを買い、結婚式の余興練習は兄がいちばん率先してやった。

俺にはこれが、家族のためを想いその一員として立派にやっていく表れというより、地元に落ち着き、そこで安泰して暮らしていくための布石にしか思えなかった。 東京からドロップアウトし、いまここでほとんどフリーターに近い状況で暮らしていることの、周囲への言い訳とおもねりにしか見えなかった。俺をイラつかせたのは言い訳をしていることではない。自分のいまの状況を良しとし、そこに安寧しようとしていることだ。まだ28なのに人生を悟りきったようなつもりになり諦念の境地に達したかのような兄の舐めきった態度と生活は、俺の神経を極限までに逆なでした。

二次会に集まった代わり映えのしない親戚たちに、くたびれきった叔父に、28にしては老け込みすぎた兄に、抱く憎悪は、変化を拒み流れを断ち切り、溜まり淀みきった腐った水に対する憎悪だ。 島には山がない。水は地下へとつながる洞窟を石段を何段も降りて行って天然の地下ダムから湧き出るものを昔はわざわざ汲んでいた。川がない島の土壌は痩せていて、掘れば石灰岩がゴロゴロしている。木々が鬱蒼と茂る本島北部のヤンバルと違って動植物の種類もそんなに多くない。予備校への通学路の途中には弁当屋兼飲み屋の店があって、簡単な座敷を備えたその店には夕方になるとでっぷりと太った中年たちがどこからか湧いてきたようにわらわらとその店に集まり浅黒い肌を寄せ合って酒盛りをするのが外から見える。その近くには原付や125ccのスクーターに乗った中高生がたむろしていて、遠慮なくこちらに容赦無く視線を注いでくる。道路だけは島の財力に見合わず立派に舗装され、その両脇には街の景観など考慮したこともないと言わんばかりの粗末で簡素な外観のコンクリート建築の住宅がぽつりぽつりと建ち、空き地は背の高い雑草が生い茂げる。通るたびに陰鬱な気分になる。

「身体の芯からなりたいと思えるもんに、おまえはなれ」というのは、南木佳士の小説作中で、信州山奥の農家育ちで医学部を目指す主人公に母が投げかける言葉で、"身体の芯からなりたいもの"について漠然と想いを馳せてきた。

人の生き死にに触れてみたいと漠然と思ってきた。それは"身体の芯から"というにはまだ漠然としすぎていて、確固たるものではないのだけれども、少なくともどういう道に進みたいかと問われれば、そういう、血と汗の滲んで、必死の形相で嘘偽りのない、人が生きることの真実に漸近できるような、そういうのに就きたいと漠然と考えてきた。

三次会で父の兄が「おまえの親父は無理して医学部に入ったが、なにも偉い職種につくだけが幸せな人生じゃない。」と、俺が出世欲に駆られて医学部を目指し始めたはいいが失敗をかさね引くに引けなくなってると思ったんだろう、そういう"諦めることも大事だ"的なことを諭してきた。

医者もピンキリで、父が医療法人の理事を務める友人の家は清潔で、リビングはソファーの本革の匂いと木の匂いがした。かたやこっちは田舎医者の息子で、父は外ヅラこそ良いが友達がいないのでウチでは飲んだくれて身内に偉そうに社会情勢について自説を振る舞うのが毎日の習慣で、河合駿の古本を集めるのが趣味で黴のような文化の匂いしかしない。 これでも、離島の片田舎からは出世したほうだとは思うけど。

うちの一家の男どもは、頭はそんな悪くはないけど、世の中を渡ってくのが下手すぎると思う。人との繋がりを結ぶのが下手だから、得られる情報に限りが出てくる。そうすると思考の流れがとどまり淀んでいく。

「いまの時代はインターネットのおかげでクズっぽい人でも仲間を見つけやすくなった。皮肉とかではなくこれは良いことだと思う。問題はそのあとどうするかだけど」というツイートが思いのほかRTされてて、皆なんかその辺思うところがあるのだなと感じた。

ネットのおかげで触れられる情報は圧倒的に増えた。コミュ力や地域による情報格差もある程度までは埋まった。友達が多いやつにしかできない特権だった「自分の心情、近況を延々と誰かに聞いてもらう」ことが割と誰にでもできるものになり、しかも普段の生活圏外の人にそれを聞いてもらうことができるようになった。多分親父がいまの俺の年齢に触れてたのと倍の情報量に触れ、倍の発信をして、倍の機会に恵まれているだろう。これは大きなアドバンテージだ。親父の時代とは違う。

“変化し続けろ"がこの本の根底に流れるテーマだと思うんだけど、それが多分自分が忌々しく思っていることへのカウンターになるんだろう。糸井重里が「いまの自分の状況になにかヒントはないかと探している人には、きっとおもしろく読めるとおもいます」と帯にメッセージを寄せていて、おもわず「おもしろく読めるかどうかじゃなくてほかの自己啓発本と違って恒久的に役に立つ本なのかどうかが知りたいんだよ」と内心突っ込んだんだけど、そういう何かにすがろうとする姿勢こそがこの本で批判されているものなのだろう。