悩め悩め。思いっきり悩め。いまあたまの中にあるモヤモヤを全て思いっきり掃除してみたまえ。手近にある紙切れに悩みをぶちまけてみろ。ガリガリ悩みを書いてみろ。Googleで思いつくままに検索してみろ。死にたい、なぜ生きなければいけないのか、なぜ働かなくてはいけないのか、なぜ社会にでなければいけないのか、なぜ勉強しなくてはいけないのか、なぜ馬鹿なやつのほうが出世できるか、なぜ嫌なやつばかりがデカイ顔をするのか、なぜ真面目なひとが報われないのか、なぜ誠実であろうとするほど苦しいかetcetc。。。検索結果を舐めまわし、すこしでも気になったものは全て読み尽くせ。ネットの大通りの裏道に、片隅に、日の当たらないところに、隠し部屋に、何年も誰も訪問しないようなテキストサイトに、ありとあらゆるサイトにダイブしまくれ。検索結果がつきたなら、すこし時間をおいたあと、また一から結果を参照しまくれ。知恵袋で、増田で、朝日の書評で、まとめサイトで、書評ブログで、日経のコラムで、だれかの日常系ブログで、あらゆるもの媒体が織りなす言葉言葉から、少しでも「これは」と思えるものを、お前の心の琴線に触れるものを探し出せ。探したら紙に写せ。ブックマークにぶちこんどけ。印刷して持ち歩け。

「悩むのは無駄な時間だ」「悩むことと考えることは違う」「悩むのはお前が暇人だからだ」「無駄な悩みを減らして効率よく成長するためのライフハック」 違う違う違う。悩むってことはそんな簡単に割り切れることじゃないんだ。悩むってのは自分を変えるための、避けられないいわば通過儀礼みたいなものなんだ。あなたの眼から見えるその世界を、いま薄い透明な粘膜であなたと隔てられているようにみえるその世界を、刷新するためのプロセスであり修行であり試練であり儀式なんだ。

「悩みで人生を浪費するなんて、時間の無駄だよね」 彼らは悩むことがいかに時間の無駄で、骨折りで、バカバカしくて、金にならないか理路整然と語り、あげく苦悩するおまえは怠惰だとさえ言うかもしれない。彼らの言葉に価値はない。彼らの言葉に耳を傾けたところでどうせ数十分もすればまた悩むのだ。いかに彼らが理路整然と語ったところで、悩みは論理で割り切れないところにあるのだから。 彼らはあなたがいま閉じ込められている塀の中から脱出した、いわば向こう側の人だ。彼らの中には以前あなたのように悶え苦しんだ人もいるかもしれないが、喉元過ぎて熱さ忘却したためあなたに上から激励紛いの唾を吐く。それとももしかすると塀なんてすこしよじ登れば簡単に越えられるものなのかもしれないが、あなたはそれを良しとせず塀の中で悩んでいるんでしょう。自分を誤魔化したくないから、簡単に割り切って、わかったような顔をして塀を乗り越えるのを拒否しているのでしょう。塀を超えること、そんな単純なことになにか重大なことが隠されている気がして、それで塀の中で悩んでいるんでしょう。それをみて彼らは「なんでこんな簡単なこと」とあなたを馬鹿にするんでしょう。それで良いのです。 あるいは彼らの言葉をうけとめ真摯に反省し、「悩まないためのtips」なる小手先のガラクタなんかを健気にも実行するかもしれないが、どうせ続かない。そんなもんで解決してるならとうの昔に悩むことなんて自然に止まっている。 近視眼的な視点から見ればいかに悩むことが無駄なことに見えようともそれをやめられないのは、それが乗り越えなければならない試練だからだ。悩み苦しみ死にたくなるような苦痛を味わったあとに、あなたにしか構築し得ない世界が待っているからだ。

悩むことは命がけだ。悩むことは逃げることではない。むしろ戦うことだ。出来合いの世界観を受け取ることを拒否し自分の力で自分だけの世界の展望台を作り上げることだ。 受動的であってはいけない。一日中ジャンクフードのようなテレビをみて過ごし、夜中布団で不安に怯えることを「苦悩」だとかふざけたことをいってはいけない。 悩むことはもっと命がけだ。わからないことをわからないまま堂々巡りし、消耗し、のたうちまわり、答えのない問いを自分に発し続けること。答えのない問いをそれでも自分に問いかけ続けること。これが悩むことであって断じて怠惰な受動的生活は悩むことと同義ではない。