言葉で物を語るってことは全体性を失うってことだと思うんですよ。人間は場に思考を支配される生き物なので、意識的に脳内に複数の場を用意したほうがいい。人は出自を裏切ることはできないので、慣習を変えたければまず一旦は言語化するなり随時自分の行動を記録するなりで意識化して、そっから変えていかなきゃいけない。間違っても力づくで無理やり変えるなんて試みを持っちゃいけない。さもなくば神経症になってしまう。ひとは意識していることなんかよりも無意識に動かされていることのほうが莫大に大きいので、痩せ細った理屈なんかで無理やり駆動しようとすると、精神がおかしくなる。馬鹿になる。 で、そういう無意識をもっと洗練させていこうってのが、コスモロジーを豊かにすることで。その手段のひとつが文章であったり、修行であったりするわけです。慣習を身に染み込ませる。 ひとは普段いろんなことを強いられるわけでもなく考えるものですが、放っておくと考えた内容なんてすぐに忘れてしまうし、堂々巡りなんてしょっちゅうで、だから考えたことを時系列で記録しなければいけない。 人文を身につけるには反芻しなきゃいけない。本が手元にない状態でも内容が”イメージ”できるようにしなくちゃいけない。(丸暗記とは違う)