集中切れた。

今日も今日とて高校でたばっかの子らと肩並べて勉強ですが、今日気付いた、俺もう22なのにほっとんど精神年齢かわんねぇ。 まー人間の精神年齢なんて環境に左右されまくりますから高校出てからこのかた成仏せずに浪人界をぐるぐる転生してりゃあそりゃあ停滞するだろうけどもちょいなんとかならんかったんかなと。ひとえにパーソナリティの問題だ。

百姓マレイって本読みました〜。青空文庫で。ドフトエフスキーの短編ですな。すぐ読めます。 で、内容なんですが、牢屋に閉じ込められた29の青年が幼い頃(9歳)のなにげない記憶をふとした拍子に思い出すって話です。

”というのは、わたしは自分の仕事に夢中になっていましたから。つまりわたしは、かえるを打つのに使うくるみの枝をおろうと一生懸命でした。くるみの枝でつくったむちときたら、きれいで、よくたわんで、とても白樺の枝なんか比べ物にならないのです。”

主人公は幼い頃過ごした森のことを思い出します。ほんで、そこでムチの話が出てくるんですが、これはもちろん市販のやつじゃなくて自分で木の枝をとってきて加工したやつですよね。それも木の枝ならなんでもいいってわけじゃない。白樺とくるみの枝は無関心なひとには大した違いなんてないように見えますが、森あそびに精通した幼い頃の主人公にはまったくちがう、ムチに加工するためには無視することのできない質感の違いがあって、主人公にはそれが大事なことなんですね。枝の質感の違いが意味を伴って主人公の前に発生してきているといってもいい。

”わたしは一生のうちで、あの森くらい好きだった場所はありません。きのこがある、いちごがる、かぶと虫もいれば、小鳥もいる。ハリネズミ、りす、それからわたしの好きで好きでたまらなかったあのしめっぽい落ち葉の匂い。。。わたしは今これを書きながら、白樺の林のにおいをしみじみかぐような気持ちがします。そういう感じは、一生のあいだ、いつまでも消えずに残っているものです。”

俺らはふつう、自分単体では生きていけません。周りを取り囲む環境に働きかけ、レスポンスをもらい、そうしないと環境的空間失調というか、そういうものに陥るんですな。ほんで、俺は去年半年間引き篭もりだったわけですが、あれはたぶんそういう空間失調に陥ろうとしたために緊急避難的にあぁいう状態になったんじゃないかなーと思う。受験するいみがわからない、このままうかってもその先どうなるのか、どうしたいのかがわからない。それでも時間は進む。周りの大人は意味のわからないことを言う。すべてが実感を伴わなくなる。

重要なのは、「働きかけて、レスポンスをもらい、自分の行動にフィードバックをする」ことで、幼いころの主人公は森での遊びを通してそういう、世界との関わりを学んでいった。そこには意味があった。白樺やくるみの木はたんなる木ではなかった。そこには違いがあり、ひっかかりがあり、自分の行動に影響するものがあった。 ぼけーっと日がな一日テレビをみて、タイムラインをながめて、それで1日が終わって、死にたくなるのは、たぶん働きかける動作がないからだ。世界が意味を失っているからだ。そういうとき、世界と自分には薄い透明な膜で隔たれているような感覚がある。スナック菓子とバラエティで飼い殺されるのを憎悪するのはそれが緩やかな自殺のように思えるからだ。そして人は意識しない限りたいていはそういう境遇に収まっていく。

なんかファスト風土ってそういうことかなーって思った。あんまうまく書けてないけど。

で、主人公は今や粗暴な囚人で埋め尽くされる牢屋に閉じ込められているわけです。そこには世界との働きかけ、働きかけられる交流はない。 そこで思い出すのが、今の今まですっかり忘れていた、貧乏な百姓マレイとの会話でした ”あの貧乏な百姓の、やさしい、まるで母親のような微笑みだの、お祈りの十字の印や、あの首を横にふりながら「ほんに、さぞたまげたこったろうになぁ、やれやれ」と言ってくれた声などが、わたしの頭に浮かんだのです。 とりわけはっきりおもいだすのは、わたしのひくひくひっつれるくちびるに、おずおずと、やさしさをこめてそっと触った、あの土だらけの太い指なのです”

たぶんいくら頭で世界のことをかんがえても、それで世界に働きかけて世界が少しでも変化し、フィードバックを得られない思考ならいくら積み上げても無駄だ。くちにふれた土だらけの指にはかなわない。 いくら本をよんでも読前と読後で自分が変化していなければそれは読まなくてもよかった本だし、いくら文章を綴ってもその前と後とで自分が変化していなければ、文章を綴ることで自分の考えを再考する契機になっていなければ、それはただの自分だけに閉じられた白昼夢を綴ったものでしかない。と思う。