言葉について


 自分では明確に考えられているつもりでも、思考というものは言葉にしないとおぼつかない危ういものだ。
 思考をはっきりさせたいなら、その言葉はなるべく口頭ではなく文字にするのが好ましい。
 なぜなら文字は思考を精緻化すると同時に記録することができるからだ。文字に起こすことで思考の展開を記録でき、それを客観視することを可能にする。音声は、音声入力で文字起こしする場合を除いて、記録と客観視のどちらも行えない。
 頭のなかだけで組み立てられた思考は必ず齟齬が出てくるといっていい。なにかを考えつつ思考の論理展開をすべて覚えられるほどの脳の容量をひとは持たないからだ。

 文字に起こしながら思考することであいまいな論理展開を詰めていき、思考が飛躍して脇道にそれる のを防ぐことができる。秩序だった概念の箱庭を構築することができる。
 そうして精緻化された思考は誰かと共有可能になる。誰か、というのは時間を隔てた自分も含む。共有可能になった思考は実現が可能になる。

 自分では明確にわかっているつもりでもいざ言葉や文字にしようとするとうまく表現できないことが多々ある。
 身体の動きをイメージできたとしても、その通りに身体が動くとは限らない。少なくとも一度試しただけでイメージ通りに動けることはほぼない。身体の動きはイメージと実際の動きをすり合わせることではじめて支配できる。実際の動きをイメージと照らし合わせて修正していくことで初めてイメージ通りかそれに近い動きをすることができる。

 思考についても同じだ。実際に言葉や文字に起こし、イメージと照らし合わせて修正していくことで思考は形となる。形を得た思考は検証可能となり、客観性に照らし合わせることができる。ここで思考の選別が行われ、非合理な思考は打ち捨てられる。
 非合理な思考は人と共有できない。少なくとも自分と立場の異なる者とは共有できない。それでもなおその思考に拘泥する人間は狂人とよばれるようになるか、そうでなくとも孤立する。
 いっぽう妥当性が認められた思考は人と共有可能となり、力を得る。力を得た言葉や文字は自分や誰かを動かし、思考を実現化していく。そのような思考は必然的に法と同じになる。