人がレベルアップするのはどんな時だろうと考える。レベルアップというのは、努力のギア比、人生の(なんらかの課題の)舞台のグレードアップなどと表現できるようなもので、当然、求められるもののレベルが上がってくる。われわれは皆、怠けている人など居ない。それぞれがそれぞれの階層で、求められる要求をこなしている。怠けている人間など、存在しない。 だが、明らかに勤勉さ、努力の絶対値、仕事の量、質、それらは等しく分配され、こなされてはいない。明らかに『階層』と呼ぶべき何かが存在している。 医学部受験生と教育学部受験生は、同じではない。求められる量、質において同じではない。あるいはプロのアスリートと市民ランナーは同じではない。土俵が違うとも表現できる。土俵ーーーーーひとは人生の節目において、土俵を選択せねばならないことが多々ある。それらは何によって決まり、選びとられるのだろうか。

医学部受験は、困難だ。「ふつう」の道より困難に満ちている。何故、好き好んでわざわざ茨の道に、なだらかな斜面のハイキングではなく峻険な山路をよじ登ることを選び取ったか?「ふつう」の受験生ならもはやリラックスしながら勉強しても咎められることはないくらいなのに、なぜわざわざそれでも「怠け者」の部類に入れられる道を選んだか?

人間は、怠惰だ。この怠惰というのは、lazyという意味ではない。やるべきことをやらず、それを是とし挙句開き直る態度のことではない。

わざわざしんどい、だるいことなんてしたくないんである。わざわざ自分から進んで、骨を折るなんてことはしたくないんである。当然だ。それは責められることではない。 ではなぜ人は、ある条件が満たされれば、自らの舞台をさらに上のところへと進めるのか。なぜわざわざそんな骨を折るのか。誰だってしんどい思いをするくらいなら下層で惰眠と安寧を貪るほうが良いに決まっている。

ひとは、人の持つ力は、己が発揮されることを自ら望む。 その一方で、ひとはできればそこに留まり、安寧に安住したいと欲し願う。

この二つの、その時の重さの違いなんだろうなと思う。

「死ぬ気でやります」という言葉がある。 あれは奴隷宣言なのだと思う。ある価値の前に身体を投げ出し、屈服する。 それは頑張るとは違うよなと思う。 あくまで主体性がないといけない。

まぁ主体性を獲得しようとした結果がこれなんだけど。 とにかく、ある価値に積極的にコミットメントすることは、ステージを上げることと同義で、決断し選び取るうえでは肯定的なんだけども。まぁいいや。

悩め悩め。思いっきり悩め。いまあたまの中にあるモヤモヤを全て思いっきり掃除してみたまえ。手近にある紙切れに悩みをぶちまけてみろ。ガリガリ悩みを書いてみろ。Googleで思いつくままに検索してみろ。死にたい、なぜ生きなければいけないのか、なぜ働かなくてはいけないのか、なぜ社会にでなければいけないのか、なぜ勉強しなくてはいけないのか、なぜ馬鹿なやつのほうが出世できるか、なぜ嫌なやつばかりがデカイ顔をするのか、なぜ真面目なひとが報われないのか、なぜ誠実であろうとするほど苦しいかetcetc。。。検索結果を舐めまわし、すこしでも気になったものは全て読み尽くせ。ネットの大通りの裏道に、片隅に、日の当たらないところに、隠し部屋に、何年も誰も訪問しないようなテキストサイトに、ありとあらゆるサイトにダイブしまくれ。検索結果がつきたなら、すこし時間をおいたあと、また一から結果を参照しまくれ。知恵袋で、増田で、朝日の書評で、まとめサイトで、書評ブログで、日経のコラムで、だれかの日常系ブログで、あらゆるもの媒体が織りなす言葉言葉から、少しでも「これは」と思えるものを、お前の心の琴線に触れるものを探し出せ。探したら紙に写せ。ブックマークにぶちこんどけ。印刷して持ち歩け。

「悩むのは無駄な時間だ」「悩むことと考えることは違う」「悩むのはお前が暇人だからだ」「無駄な悩みを減らして効率よく成長するためのライフハック」 違う違う違う。悩むってことはそんな簡単に割り切れることじゃないんだ。悩むってのは自分を変えるための、避けられないいわば通過儀礼みたいなものなんだ。あなたの眼から見えるその世界を、いま薄い透明な粘膜であなたと隔てられているようにみえるその世界を、刷新するためのプロセスであり修行であり試練であり儀式なんだ。

「悩みで人生を浪費するなんて、時間の無駄だよね」 彼らは悩むことがいかに時間の無駄で、骨折りで、バカバカしくて、金にならないか理路整然と語り、あげく苦悩するおまえは怠惰だとさえ言うかもしれない。彼らの言葉に価値はない。彼らの言葉に耳を傾けたところでどうせ数十分もすればまた悩むのだ。いかに彼らが理路整然と語ったところで、悩みは論理で割り切れないところにあるのだから。 彼らはあなたがいま閉じ込められている塀の中から脱出した、いわば向こう側の人だ。彼らの中には以前あなたのように悶え苦しんだ人もいるかもしれないが、喉元過ぎて熱さ忘却したためあなたに上から激励紛いの唾を吐く。それとももしかすると塀なんてすこしよじ登れば簡単に越えられるものなのかもしれないが、あなたはそれを良しとせず塀の中で悩んでいるんでしょう。自分を誤魔化したくないから、簡単に割り切って、わかったような顔をして塀を乗り越えるのを拒否しているのでしょう。塀を超えること、そんな単純なことになにか重大なことが隠されている気がして、それで塀の中で悩んでいるんでしょう。それをみて彼らは「なんでこんな簡単なこと」とあなたを馬鹿にするんでしょう。それで良いのです。 あるいは彼らの言葉をうけとめ真摯に反省し、「悩まないためのtips」なる小手先のガラクタなんかを健気にも実行するかもしれないが、どうせ続かない。そんなもんで解決してるならとうの昔に悩むことなんて自然に止まっている。 近視眼的な視点から見ればいかに悩むことが無駄なことに見えようともそれをやめられないのは、それが乗り越えなければならない試練だからだ。悩み苦しみ死にたくなるような苦痛を味わったあとに、あなたにしか構築し得ない世界が待っているからだ。

悩むことは命がけだ。悩むことは逃げることではない。むしろ戦うことだ。出来合いの世界観を受け取ることを拒否し自分の力で自分だけの世界の展望台を作り上げることだ。 受動的であってはいけない。一日中ジャンクフードのようなテレビをみて過ごし、夜中布団で不安に怯えることを「苦悩」だとかふざけたことをいってはいけない。 悩むことはもっと命がけだ。わからないことをわからないまま堂々巡りし、消耗し、のたうちまわり、答えのない問いを自分に発し続けること。答えのない問いをそれでも自分に問いかけ続けること。これが悩むことであって断じて怠惰な受動的生活は悩むことと同義ではない。

ひとの勤勉/怠惰を決めるのはなんだろうと漠然と考える。 たぶんそれは「意味」であって、本人の資質にまったく依らないとは言わないけど、やることに意味を見出せなければそれに没頭することは難しい。

ブログでは長い間内省的な、自分以外には「お、おぅ。。。」で終わってしまうようなことを書き過ぎてしまったなと思う。ここでも、というかブログ以上にここでは、内省的になりすぎるが故に意識が外界と上滑りするようなことを書き過ぎてしまったなと思う。そういうのがステージアップのため、カゴのなかから脱出するために必要なプロセスではあったけど。

だいたい「ブロガーのひみつきち」と銘打たれたところでこのように好き勝手振る舞うことに違和感と罪悪感を朧げながら感じていたわけだけれども、それはじぶんがブロガーであるというアイデンティティの意識を持たないできたことに由来する。自分はブロガーではない。少なくとも、いまのところは。ただの自分語り屋だ。 ブログを開設したのは自分語りのためで、世界と自分とを結びつけるために、自分と世界とを隔てている薄く透明な膜を破るために開設し、エントリを積み上げてきたのだから、それで構わないのだけれど。 まぁもう少しして気が向いたら、気が熟せばもうちょい外界にベクトルを向けたブログ人格にシフトしていってもいい、いっても良いというか自然にそうなるのだと思う。そしてそうなる時はすなわちリアル人格の社会性、外向性がそれなりの形を伴ってきたときになるんだろうなと思う。相変わらず自分語りしかできることがないのだけれども、なるべく早くそういう体制にギアチェンジしていこうと思う。

その一方で、内面をえぐるような観察眼と描写技術をもつ人の書く文に憧れてもいて、稚拙な文章力と幼稚な精神しかいまだ持ち合わせない自分がこんなこと言うのは恥ずかしいんだけど、そういう文章をいつかは書くという野心のようなものを持っている。

人間が惰性を振り切り、ステージアップしようと考えるのは、慣習といずれはなる己の行動に意味を十分に見出せた時だ。莫大な時間と労力を、わざわざ安寧を振り切ってまで投資し、卑近で安易な欲求充足を先延ばしにし、節制禁欲を可能にするのは、進まんとする道とその先にあるものに、それだけの意義と価値があることを己の行動を通して確信できた時だけだ。

悩みに悩み、のたうちまわってきた自分をすこし名誉にも感じていて、

ブログを開設したのは自分語りのためで、世界に自分を繋ぎとめ、自分と世界を隔ててる薄い透明な膜を破って前に進むために言葉を紡いできたので、書くことほとんどが内向的なのは当然なのだけれども、いざ久しぶりに何かを書こうとすると書きたいことのほとんどが自分語りに終始してしまうものだと流石に閉口してしまう。

一旦家に帰って一人で飯食いながらキーボード打ってる。 ニコニコ動画なんてめったに開くことないしニコニコ文化にはからっきし疎いのだけれど、だいぶ昔、まだ那覇レオパレスで一人暮らししながら浪人してる時になにかの拍子で知った「パンツマン」をなぜかおととい急に思い出して、iPhoneニコニコ動画アプリでパンツマンがきったねぇキッチンで、独身の一人暮らしがきたねぇキッチンで作るわりには手の込んだ、ピラフだのの料理を作るのを観ながら昼飯を食った。

秋めいてきて南国である俺の居住地にも、ふだんは冷凍物しかない秋刀魚がその日は内地から直送された、ギラギラ光って獲れたてのものがスーパーの生食品コーナーに入ってきていたので(冷凍モノはたいていこのギラギラが落ち込んでいて、氷水に無造作に突っ込まれたものがだらしなく浮かんでいることが多いので食欲をそそらない。)それを買ってグリルで炙ったものをメインに、久しぶりに味噌汁を作って、煮干しで出汁をとって白味噌、ネギ、豆腐で仕上げたものを添える。

店長ことmk2さんのテキストサイト時代のログを漁ってちょっと思ったことなどを

リビドーに任せて何かしらに没入することが無くなってしまった、と思った。なくなってしまったということは、以前はあったということだ。俺は覚えている。中学生の頃の、英文を親指のつけ根が痛くなるほど何度も何度も写経して頭に叩き込んで、頭が飽和した時に勉強机からみえた夜景を眺めているときの、あの感覚を。鼻炎がちの鼻からとめどなく溢れてくる鼻水を制服の袖で抑えながら必死になって写経暗記した数学のテキストと冷房が効き過ぎた塾の自習室で、親元を離れ、友人もそんなにいない中で不安になりながら勉強した時の、必死さと哀愁の入り混じった心境を。

いまはどうか。だいぶたるんで荒んでしまったなと思う。

パソコン詳しいひと多いと思うんで聞きたいんですけど、プログラミング技術を、なんか最近"教養として"身につけておくべきみたいな話をちょくちょく耳にしますけど、これってどういうことなんですかね。周りにそういうの強い人いないんでよくわからないです。

いやもちろん今は受験勉強を最優先させますけど。

受験勉強にしたって、詰め込んで受かってはい終わりー全部忘れたー飲み会サークルうぇーいってなるのが普通だと思うんすけど、それめっちゃ嫌なんすよね。積分が役に立つ場面があるはずだ。有機化学の知識が役にたつ場面があるはずだ。工業化学の知識がのちのち役にたつ場面が実際にあるはずだ。 1984の読書会したときに印象に残ったもののひとつに、主人公が労働者階級の集まるBARであまり頭の良くない老人にビール奢って昔の話を聴きだそうとしたけど結局”つまらない”話しか聞き出せなかったって落胆してる場面に、レモンさんが、「断片的な情報から意味を汲み取ってつなぎ合わせるのがお前の仕事であって、老人の話がつまらないのはお前の力が足りないせいだ」っていってたのがあって、それじゃないですけど、たぶん与えられたフィールドで与えられたことを黙々とやっても、自分の身に引きつけて自分で考える脚力みたいなのがなかったら、単なる暗記マシーンで終わってしまうとおもうんですよね。暗記マシーンの優劣を比べる競争でしかなくなってしまう。

たぶん浪人初期からぼんやりと感じていた違和感を敢えていま一側面から捉えて言語化するとしたら、こういう「勉強してなんになるの」ってことだと思うんすよね。で、それの答えは「お前が考えろ」なんだと思うんですけど。 ブルデュー文化資本じゃないですけど、そういうのって周りの人間に左右される。そういう点ではネットある時代に産まれてよかったなと思いますけど、それだけじゃもちろん足りないわけで、自分からキャッチしていかないといけない。

そんなことを考えながら勉強してきた結果がいまの惨状なんですけど、じゃあなんも考えずにとにかく与えられたものをこなして受かってそのあとどうなってたんだろうってことを考えると。。。。。。たぶん遅かれ早かれつまずいていたんだろうなと思う。どのみちこの数年の逡巡は必要だったんじゃないかと。

それにしたって遠回りをしすぎではあって、いまの惨状はもうちょっとはマシにはできたのは確かなんだけど。