一旦家に帰って一人で飯食いながらキーボード打ってる。 ニコニコ動画なんてめったに開くことないしニコニコ文化にはからっきし疎いのだけれど、だいぶ昔、まだ那覇レオパレスで一人暮らししながら浪人してる時になにかの拍子で知った「パンツマン」をなぜかおととい急に思い出して、iPhoneニコニコ動画アプリでパンツマンがきったねぇキッチンで、独身の一人暮らしがきたねぇキッチンで作るわりには手の込んだ、ピラフだのの料理を作るのを観ながら昼飯を食った。

秋めいてきて南国である俺の居住地にも、ふだんは冷凍物しかない秋刀魚がその日は内地から直送された、ギラギラ光って獲れたてのものがスーパーの生食品コーナーに入ってきていたので(冷凍モノはたいていこのギラギラが落ち込んでいて、氷水に無造作に突っ込まれたものがだらしなく浮かんでいることが多いので食欲をそそらない。)それを買ってグリルで炙ったものをメインに、久しぶりに味噌汁を作って、煮干しで出汁をとって白味噌、ネギ、豆腐で仕上げたものを添える。

店長ことmk2さんのテキストサイト時代のログを漁ってちょっと思ったことなどを

リビドーに任せて何かしらに没入することが無くなってしまった、と思った。なくなってしまったということは、以前はあったということだ。俺は覚えている。中学生の頃の、英文を親指のつけ根が痛くなるほど何度も何度も写経して頭に叩き込んで、頭が飽和した時に勉強机からみえた夜景を眺めているときの、あの感覚を。鼻炎がちの鼻からとめどなく溢れてくる鼻水を制服の袖で抑えながら必死になって写経暗記した数学のテキストと冷房が効き過ぎた塾の自習室で、親元を離れ、友人もそんなにいない中で不安になりながら勉強した時の、必死さと哀愁の入り混じった心境を。

いまはどうか。だいぶたるんで荒んでしまったなと思う。

パソコン詳しいひと多いと思うんで聞きたいんですけど、プログラミング技術を、なんか最近"教養として"身につけておくべきみたいな話をちょくちょく耳にしますけど、これってどういうことなんですかね。周りにそういうの強い人いないんでよくわからないです。

いやもちろん今は受験勉強を最優先させますけど。

受験勉強にしたって、詰め込んで受かってはい終わりー全部忘れたー飲み会サークルうぇーいってなるのが普通だと思うんすけど、それめっちゃ嫌なんすよね。積分が役に立つ場面があるはずだ。有機化学の知識が役にたつ場面があるはずだ。工業化学の知識がのちのち役にたつ場面が実際にあるはずだ。 1984の読書会したときに印象に残ったもののひとつに、主人公が労働者階級の集まるBARであまり頭の良くない老人にビール奢って昔の話を聴きだそうとしたけど結局”つまらない”話しか聞き出せなかったって落胆してる場面に、レモンさんが、「断片的な情報から意味を汲み取ってつなぎ合わせるのがお前の仕事であって、老人の話がつまらないのはお前の力が足りないせいだ」っていってたのがあって、それじゃないですけど、たぶん与えられたフィールドで与えられたことを黙々とやっても、自分の身に引きつけて自分で考える脚力みたいなのがなかったら、単なる暗記マシーンで終わってしまうとおもうんですよね。暗記マシーンの優劣を比べる競争でしかなくなってしまう。

たぶん浪人初期からぼんやりと感じていた違和感を敢えていま一側面から捉えて言語化するとしたら、こういう「勉強してなんになるの」ってことだと思うんすよね。で、それの答えは「お前が考えろ」なんだと思うんですけど。 ブルデュー文化資本じゃないですけど、そういうのって周りの人間に左右される。そういう点ではネットある時代に産まれてよかったなと思いますけど、それだけじゃもちろん足りないわけで、自分からキャッチしていかないといけない。

そんなことを考えながら勉強してきた結果がいまの惨状なんですけど、じゃあなんも考えずにとにかく与えられたものをこなして受かってそのあとどうなってたんだろうってことを考えると。。。。。。たぶん遅かれ早かれつまずいていたんだろうなと思う。どのみちこの数年の逡巡は必要だったんじゃないかと。

それにしたって遠回りをしすぎではあって、いまの惨状はもうちょっとはマシにはできたのは確かなんだけど。

なんか今日は頭の回転が遅いな、鈍ってるなと思ったら、土曜で朝テストがないので、一日中人と話さないどころか人の気配にも触れていないことに気がついた。 もう夜だけど頭廻すがてらなんか書く。

今日の英文。シェイクスピアに関してとんでもねぇ記述を見つけた。 Most of us use about five thousand words in our normal employment of English;Shakespeare in his works used about twnty-five thousand! 我々の大部分は、ふつう英語を用いるのに約5000語を使用するが、シェイクスピアについては彼の作品においてなんと25000もの語が使用されているのだ! ぱねぇ。読んだことないけど。

どうも俺は他人と比して白昼夢に浸る割合が多いっぽいんですが、気を抜くとすぐに時間が経っちまう。今日が何日かわからないとかザラ。 別に浪人中に限った話じゃなくて、どうも小学校あたりからそうっぽいんですな。

環境さえ許せばいつまでもベッドで寝てるような人間で、昨日のように急にスイッチが入ることもあれば、今日みたく思考が糸の切れた凧みたくどっかフラフラしっぱなしの時もある。

言葉で物を語るってことは全体性を失うってことだと思うんですよ。人間は場に思考を支配される生き物なので、意識的に脳内に複数の場を用意したほうがいい。人は出自を裏切ることはできないので、慣習を変えたければまず一旦は言語化するなり随時自分の行動を記録するなりで意識化して、そっから変えていかなきゃいけない。間違っても力づくで無理やり変えるなんて試みを持っちゃいけない。さもなくば神経症になってしまう。ひとは意識していることなんかよりも無意識に動かされていることのほうが莫大に大きいので、痩せ細った理屈なんかで無理やり駆動しようとすると、精神がおかしくなる。馬鹿になる。 で、そういう無意識をもっと洗練させていこうってのが、コスモロジーを豊かにすることで。その手段のひとつが文章であったり、修行であったりするわけです。慣習を身に染み込ませる。 ひとは普段いろんなことを強いられるわけでもなく考えるものですが、放っておくと考えた内容なんてすぐに忘れてしまうし、堂々巡りなんてしょっちゅうで、だから考えたことを時系列で記録しなければいけない。 人文を身につけるには反芻しなきゃいけない。本が手元にない状態でも内容が”イメージ”できるようにしなくちゃいけない。(丸暗記とは違う)

集中切れた。

今日も今日とて高校でたばっかの子らと肩並べて勉強ですが、今日気付いた、俺もう22なのにほっとんど精神年齢かわんねぇ。 まー人間の精神年齢なんて環境に左右されまくりますから高校出てからこのかた成仏せずに浪人界をぐるぐる転生してりゃあそりゃあ停滞するだろうけどもちょいなんとかならんかったんかなと。ひとえにパーソナリティの問題だ。

百姓マレイって本読みました〜。青空文庫で。ドフトエフスキーの短編ですな。すぐ読めます。 で、内容なんですが、牢屋に閉じ込められた29の青年が幼い頃(9歳)のなにげない記憶をふとした拍子に思い出すって話です。

”というのは、わたしは自分の仕事に夢中になっていましたから。つまりわたしは、かえるを打つのに使うくるみの枝をおろうと一生懸命でした。くるみの枝でつくったむちときたら、きれいで、よくたわんで、とても白樺の枝なんか比べ物にならないのです。”

主人公は幼い頃過ごした森のことを思い出します。ほんで、そこでムチの話が出てくるんですが、これはもちろん市販のやつじゃなくて自分で木の枝をとってきて加工したやつですよね。それも木の枝ならなんでもいいってわけじゃない。白樺とくるみの枝は無関心なひとには大した違いなんてないように見えますが、森あそびに精通した幼い頃の主人公にはまったくちがう、ムチに加工するためには無視することのできない質感の違いがあって、主人公にはそれが大事なことなんですね。枝の質感の違いが意味を伴って主人公の前に発生してきているといってもいい。

”わたしは一生のうちで、あの森くらい好きだった場所はありません。きのこがある、いちごがる、かぶと虫もいれば、小鳥もいる。ハリネズミ、りす、それからわたしの好きで好きでたまらなかったあのしめっぽい落ち葉の匂い。。。わたしは今これを書きながら、白樺の林のにおいをしみじみかぐような気持ちがします。そういう感じは、一生のあいだ、いつまでも消えずに残っているものです。”

俺らはふつう、自分単体では生きていけません。周りを取り囲む環境に働きかけ、レスポンスをもらい、そうしないと環境的空間失調というか、そういうものに陥るんですな。ほんで、俺は去年半年間引き篭もりだったわけですが、あれはたぶんそういう空間失調に陥ろうとしたために緊急避難的にあぁいう状態になったんじゃないかなーと思う。受験するいみがわからない、このままうかってもその先どうなるのか、どうしたいのかがわからない。それでも時間は進む。周りの大人は意味のわからないことを言う。すべてが実感を伴わなくなる。

重要なのは、「働きかけて、レスポンスをもらい、自分の行動にフィードバックをする」ことで、幼いころの主人公は森での遊びを通してそういう、世界との関わりを学んでいった。そこには意味があった。白樺やくるみの木はたんなる木ではなかった。そこには違いがあり、ひっかかりがあり、自分の行動に影響するものがあった。 ぼけーっと日がな一日テレビをみて、タイムラインをながめて、それで1日が終わって、死にたくなるのは、たぶん働きかける動作がないからだ。世界が意味を失っているからだ。そういうとき、世界と自分には薄い透明な膜で隔たれているような感覚がある。スナック菓子とバラエティで飼い殺されるのを憎悪するのはそれが緩やかな自殺のように思えるからだ。そして人は意識しない限りたいていはそういう境遇に収まっていく。

なんかファスト風土ってそういうことかなーって思った。あんまうまく書けてないけど。

で、主人公は今や粗暴な囚人で埋め尽くされる牢屋に閉じ込められているわけです。そこには世界との働きかけ、働きかけられる交流はない。 そこで思い出すのが、今の今まですっかり忘れていた、貧乏な百姓マレイとの会話でした ”あの貧乏な百姓の、やさしい、まるで母親のような微笑みだの、お祈りの十字の印や、あの首を横にふりながら「ほんに、さぞたまげたこったろうになぁ、やれやれ」と言ってくれた声などが、わたしの頭に浮かんだのです。 とりわけはっきりおもいだすのは、わたしのひくひくひっつれるくちびるに、おずおずと、やさしさをこめてそっと触った、あの土だらけの太い指なのです”

たぶんいくら頭で世界のことをかんがえても、それで世界に働きかけて世界が少しでも変化し、フィードバックを得られない思考ならいくら積み上げても無駄だ。くちにふれた土だらけの指にはかなわない。 いくら本をよんでも読前と読後で自分が変化していなければそれは読まなくてもよかった本だし、いくら文章を綴ってもその前と後とで自分が変化していなければ、文章を綴ることで自分の考えを再考する契機になっていなければ、それはただの自分だけに閉じられた白昼夢を綴ったものでしかない。と思う。

いくら勉強しても言葉を紡いでも、人生が好転している気配がない。なにがたりないんだろうか。。。

そもそもなにをもってして人生の好転機とするのか、それすら不明瞭なまま、あたかも霧の中で五寸先も見えないまま手探りでうろつくといったような生き方をこのごろしているような気がする。 そんな状況のなかで求められるのは。霧の中でもその位置を明瞭に現す、強力な光源をもった灯台のような目標であったりあこがれであったりするのだけれども、そういったものは結局、いま自分のいる位置を照らし出すことで明瞭化し、とりあえずは進むべき道を探り出すのに役立ちはするのだけれども、道を進んでいくにつれて光源は遠くなり、また新たな灯台を必要とせざるを得なくなる。つまりはどんなに強烈なイデオロギーや目標意識なんかも、けっきょくは絶対的なものではあり得なくて、だからただの通過点にしかすぎない、道を照らし出すための相対的な印でしかない目標を絶対化しそれにしがみつくと、たいていの場合おかしくなる。

たとえば俺の場合、医学部の合格というのが当面の目標なのだが、それはくまで通過点にしかすぎず、相対的なものでしかないというのは、さすがに成人した人ならわかるはずだが、それなりの学力と分別をもつ人間が多いはずの浪人界隈でも医学部合格というマイルストーンを神聖化し、フェティシズムに陥る人間というのは珍しくない存在だ。 強烈な光源に身を任せ、コンビニの電灯にあつまる夜の虫よろしくそれに特攻するのは、光源が誘発する衝動の大きさを考えるとそれに身をまかせるのはモチベーションの維持とそのコストを考えるとわりかし理にかなっている気もするけど、理性を失った猛進というのはその犠牲も考えるとあまり賢いものではない。 目標を達成しなくても良いと言っているわけではない。

いや、むしろ目標を達成するために、冷静である必要があると言っているのだ。

揺るぎようのないようにみえる教条を与えられた人は、ときに物凄いエネルギーを発する。だがその偏狭な精神が産み出すエネルギーはひとたび教条の絶対性が失われるとたちまち効力を失ってしまう。

考えることをめんどくさがる、あるいはどう考えていいのかわからない人たちは、世界を単純化して捉える教条の罠に陥りやすい。不幸にも物事を批判して考える術を持たない人間は、絶対的な教条やわかりやすい図式を欲しがる。不安だからだ。 かくいう自分も、どちらかというとそういう人間に近い。ただたまたま、幸か不幸か中途半端に働く頭をもって産まれてしまっただけだ。物事を批判して考えるための材料は少ししじゃ持ち合わせていない。だから俺は、本質的には新興宗教的なわかりやすい世界観を必要とせざるを得ない人物だ。だからより一層そういったものを嫌う。軽蔑する。そうしないとあっというまにそれらに取り込まれてしまうからだ。

物事を批判して考えるための道具に乏しい。ひいては、頭が悪い。だから頭の良い人に憧れる。そういったひとに少しでも近づけたらと思う。ここでいう頭の良さとは学歴の良し悪しとは必ずしも合致しない。もっと日常的な物事を遂行する上での、頭のキレのようなものだ。

福沢諭吉のいう実学とは、こういったもののことを言うのだろうと思う。反証可能な思考プロセス。教義ではない駆動理念。

「もっといい方法があるなら教えてくれ。そういう批判なら喜んで受け入れるだろう。」という姿勢こそが、机上の空論ではない、世界を現実に動かす思考へとつながるのだと思う。